スコットホールについて
1918年にアトランタで開かれた米国北部バプテスト総会で報告された早稲田奉仕園の事業に強く賛同された 、 J.E.スコット夫人(1851-1936)から寄せられた多額の献金により、1921年末に完成、 1922年1月に献堂式(竣工式)が行なわれスコットホールと名付けられました。
早稲田奉仕園の創立者H.B.ベニンホフは1908年早稲田鶴巻町にキリスト教主義の大学生寮「友愛学舎」を創設、 1911年に牛込弁天町に「友愛学舎」を移転させた後、更に大きな総合学生センターを現在の地に作ることを計画しました。
そして最初に建設されたのが、この赤レンガ組積造りの建物スコットホールです。
1918年にアトランタで開かれた米国北部バプテスト総会で報告された早稲田奉仕園の事業に強く賛同された 、 J.E.スコット夫人(1851-1936)から寄せられた多額の献金により、1921年末に完成、 1922年1月に献堂式(竣工式)が行なわれスコットホールと名付けられました。
当時ベニンホフと親交のあったヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、 早稲田大学の内藤多仲教授研究室が施工監理を行い、同研究室の今井兼次助教授(当時)が担当者となって設計を完成させ、 竹田米吉店が施工を請け負いました。
ヴォーリズは日本の近代建築の世界に多くの名作を残している著名な建築家、内藤多仲氏は「耐震構造の父」と呼ばれ、 東京タワーの設計者としても知られています。 また、今井兼次氏は早稲田大学演劇博物館や日本26聖人殉教記念館・皇居桃華楽堂などの作品を残した日本を代表するクリスチャンの建築家、 竹田米吉氏は「当代随一のレンガ積みの名手」といわれた人物です。
その後、同じ敷地内に赤レンガ造りの学生寮「友愛学舎(設計:レイモンド)」や宣教師館(設計:ヴォーリズ)が建設され、 テニスコートやバレーボール・バスケットボールコートなどが次々と出来上がり、 学生センターが形成されます。
スコットホールは完成当時より、礼拝堂としてだけでなく、集会や催し物の会場に使われるなど、 多目的ホールの機能を果たしてきました。1923年の関東大震災や、1945年の東京大空襲で間近に迫った炎にも耐え、 ほぼ建設当時のままの姿を今に残しています。
その後、同じ敷地内に赤レンガ造りの学生寮「友愛学舎(設計:レイモンド)」や宣教師館(設計:ヴォーリズ)が建設され、 テニスコートやバレーボール・バスケットボールコートなどが次々と出来上がり、 学生センターが形成されます。
スコットホールは完成当時より、礼拝堂としてだけでなく、集会や催し物の会場に使われるなど、 多目的ホールの機能を果たしてきました。1923年の関東大震災や、1945年の東京大空襲で間近に迫った炎にも耐え、 ほぼ建設当時のままの姿を今に残しています。
1990年東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の指定を受け、多くの人々の寄付・協力によって、構造の補強と外観の全面改修保存が行われました。
また、2008年の早稲田奉仕園創立100周年を機に、戦時中に削り取られていた講堂正面玄関上方のスコットホールの頭文字"S"をかたどったエンブレムが復活しました。
現在のスコットホールは早稲田教会の礼拝堂として使われる他に、結婚式、音楽コンサート、会議場、合唱団の練習、 地域社会の集会やイベント、映画やTVドラマ・CM撮影など、さまざまな用途に使われ、人々に親しまれています。
1990年東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の指定を受け、多くの人々の寄付・協力によって、構造の補強と外観の全面改修保存が行われました。
また、2008年の早稲田奉仕園創立100周年を機に、戦時中に削り取られていた講堂正面玄関上方のスコットホールの頭文字"S"をかたどったエンブレムが復活しました。
現在のスコットホールは早稲田教会の礼拝堂として使われる他に、結婚式、音楽コンサート、会議場、合唱団の練習、 地域社会の集会やイベント、映画やTVドラマ・CM撮影など、さまざまな用途に使われ、人々に親しまれています。